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[月刊コラム Vice Versa 第4回]"ACミランとステファン・エル・シャラーウィ、噛み合い切らなかった歯車" #ForzaFaraone


まさに青天の霹靂・・・、というわけではなかった。

事が具体的に動き始めたのは2014年末。
ASローマが彼を獲得したいと本気で考えたその時から、可能性は高まっていた。。。

ステファン・エル・シャラーウィがACミランに加入したのは2011年6月25日のことだった。当時、ACミランプリマヴェーラの選手の中では期待値の高かったMFアレキサンダー・メルケルの保有権をジェノアに譲渡してまで獲得したのは、2010-2011シーズンのレンタル先パドヴァでの活躍が認められてのことであった。パドヴァは4-3-3を基本フォーメーションに、左ウィングで活躍した「ファラオーネ」は鳴り物入りでのミラン加入となった。加入当時から順風満帆であった。当時はまだズラタン・イブラヒモヴィッチがいたし、ロビーニョというお手本が存在した。出場機会もそれなりには与えられ、しっかりとした柱のいるミランの中で、新進気鋭の若手という位置づけは、彼の成長に大きく寄与することとなった。しかし。。。

2012年夏、ミランは大きな舵を切ることになる。ジェンナーロ・イヴァン・ガットゥーゾ、ピッポ・インザーギ、アレッサンドロ・ネスタ、クラレンス・セードルフ、ジャンルカ・ザンブロッタなど「ベテラン」の一斉引退。そして、チアゴ・シウヴァ、ズラタン・イブラヒモヴィッチの移籍、アントニオ・カッサーノの引退。チームはベテランを失い、中核を失う。これはある意味でクラブは一気に「若返り」を迫られる結果となる。その中心人物として挙げられたのが、ステファン・エル・シャラーウィであり、マッティア・デ・シリオであった。しかし、2012年夏の時点で弱冠20歳のファラオーネにとって、それはプレッシャーを意味する。シーズン開始当初は感じることのなかったプレッシャーだったのかもしれない。2012-2013シーズン前半のファラオーネは、14得点を挙げていた。これは20歳の若手選手としては驚異的な数字である。しかし、それでもチームはズルズルと後退していた。若手のホープには、自らの数字だけでなく、「チーム全体」の数字が重く圧し掛かっていた。更に・・・。

2012年10月6日、"La Gazzetta dello Sport"の中には、「ウクライナの矢」、ACミランのレジェンドストライカー、アンドレイ・シェフチェンコのインタビューが掲載された。その一節を紹介しよう。
「エル・シャラーウィについて、誰を比較することが出来るかはわからない。比較というものは有害なものだと私も信じている。というのも、いかなるカンピオーネも、独自の存在であるからね。
しかし、ステファンを見ていると、私には私のことを思い出さされる。そういう何かが備わっている。例えば、彼が加速した時などね。エル・シャラーウィには偉大なる選手となるに必要な全ての要素が備わっている。彼は足が速く、良いシュートが打て、簡単に攻撃が出来る。しかしながら、彼の役目はゴールを決めること。もしイタリアでそれが出来なければ、人々は彼を批判することになるだろう。」

また、ジョゼ・アルタフィーニ(同じくACミランレジェンド)はこうも述べた。
「エル・シャラーウィはネイマールや(リオネル・)メッシを思いこさせる。彼らは重心が低く、ボールを足に吸い付けているかのようにプレーする。彼は既に自らが良い選手であることを証明した。大事なのは彼のことを持ち上げすぎないことだけどね。。。」
しかし、時既に遅しであった。

2012-2013シーズン前半の大活躍は、ACミランのティフォージ(ファン)にとって、失われた多くの輝く宝石達を忘れる為の唯一無二の存在であった。マッティア・デ・シリオにも同じく過度の期待が掛かっていたものの、ディフェンダーである彼と、アタッカーであるエル・シャラーウィ、どちらにより多くの期待が掛かるかは自明であった。様々な選手がイブラの不在に悩み、もがき苦しむようになった中で、前半戦だけで14ゴールという数字を叩き出したファラオーネに多くのミラニスタが夢の実現を確信していた。
ステファン・エル・シャラーウィがミランを救う
この言葉は、ギリギリの時間に同点ゴールを叩き出したフリウリでのウディネーゼなど、様々な試合後日の新聞紙面で使われた。
ステファン・エル・シャラーウィはミランの新たなシェヴァだ
「ステファン・エル・シャラーウィは将来バロンドール候補となるだろう
「攻撃に転じてはゴールを奪い、バックラインのカバーまでしてしまうファラオーネは総合的に優れたカンピオーネ候補だ」
彼の両肩には、「ACミラン」の看板と、「ACミランのレジェンド」との比較といった「荷物」が抱えきれないほど、いや、彼を押しつぶすほど圧し掛かっていたのである。

カレンダーを2013年のものに替え、新加入のマリオ・バロテッリとの2枚看板(ファラオーネの負担を少しでも減らそうというミランフロントの計画)として、シーズンの後半戦に挑んだファラオーネは急激にゴールが奪えなくなってしまう。重心の下がったチームは守備に奔走し、ファラオーネにも守備のタスクが雁字搦めのように科せられていた。ゴールは2つ。後半戦のファラオーネの数字である。もうこのときにはシェヴァの宣言通り、批判が待っていた。
ステファン・エル・シャラーウィはゴールが奪えない。ワンパターンのドリブル。カットインしかない選択。ディフェンダーはもう彼の動きを読みきっている。

2013-2014シーズン開幕。8月のUEFAチャンピオンズリーグプレーオフ、PSVアイントホーフェン戦でゴールを奪ったファラオーネは再び再始動を切った・・・はずであった。しかし、翌9月には怪我を負う。筋繊維に問題が生じたファラオーネは当初2週間の離脱であった。しかし。。。復帰したばかりのファラオーネを襲ったのは中足骨骨折。その後、2ヶ月復帰に時間を要したファラオーネは復帰後約2週間で怪我が癒えていないとの理由で再離脱。その離脱中には脊ついを損傷していることが判明し、結局4月までは復帰なし。その頃には、ミランはクラレンス・セードルフが監督になり、夢のカカとの共演のチャンスはもう僅かしか残っていなかった。。。

2014-2015シーズンも、怪我に悩まされた。もはやほぼ1シーズンまるごとを怪我で過ごしたファラオーネに、ミランの中心選手という看板はほぼほぼ残されていなかった(期待されていなかったわけではない、むしろ、期待は高いままであった。)。ジェレミー・メネーズの独我的ではあるが、結果にはなる活躍の陰で、ファラオーネは再び、シーズン後半を中足骨骨折により離脱。怪我との戦いを2シーズン連続で送る結果となる。


2014-2015シーズンの中頃、ステファン・エル・シャラーウィを欲しがったチームがある。それがASローマでった。マッティア・デストロの獲得を望んでいたフィリッポ・インザーギ監督の意向を知っていたローマのワルテル・サバティーニSDは、即座に動きを見せたのである。
「ACミランがマッティア・デストロの獲得に向け、ステファン・エル・シャラーウィとのトレードを画策」
こう銘打って記事を書いたメディアはローマを本拠にするとある新聞紙である。その新聞紙は、ワルテル・サバティーニSDの動きを1番精確に表すことで定評がある。(ワルテル・サバティーニSD自身が意図的にリークしているという噂もある。)ACミランはその際、スソのフリーでの獲得に動いていたことも相俟って、信憑性を与えたその噂は、結局のところ、ファラオーネ自身の怪我により頓挫した。しかし、その時には、ボルシア・ドルトムントを始め、各国の有力クラブからのオファーがあったことは、代理人である兄の後の発言から明らかとなっている。

そして、夏のカルチョメルカート(移籍市場)へ。
ビー・タエチャウボルの介入により、金銭的に窮地を脱したACミランは、カルロス・バッカ、ルイス・アドリアーノの獲得を決めた。さらにはズラタン・イブラヒモヴィッチの再獲得を目指している。
さらに、ACミランはシニシャ・ミハイロヴィッチ監督の招聘を発表した。シニシャ・ミハイロヴィッチはサンプドリアで4-3-1-2を使用している監督である。この2つの要素をかみ合わせれば、FWはバッカとルイス・アドリアーノ、トレクァルティスタ(トップ下)はズラタン・イブラヒモヴィッチというのがミランの構想であろうという予想が容易に成り立つ。そこでステファン・エル・シャラーウィの居場所がない、とされるのはある意味妥当なことでもある。
しかし、その4-3-1-2は純然たる4-3-1-2ではない。カルロ・アンチェロッティの4-3-1-2とも、マッシミリアーノ・アッレグリの4-3-1-2とも異なるミハの4-3-1-2は、未だ然程多くの解説がなされているわけではない。しかし、彼の4-3-1-2は「4-3-1-2」という呼称はあるものの、4-2-3-1にも通ずる「4-3-1-2」というフォーメーションである(後の記事で詳述予定)。
いかにも、彼の「4-3-1-2」であればステファン・エル・シャラーウィはインサイドハーフでも十分起用可能なのであるが、まだそれはミランにおいては紹介されているものではなかった。しかし、シニシャ・ミハイロヴィッチ監督も、シルヴィオ・ベルルスコーニ名誉会長も、彼は「インサイドハーフ」のポジションでも十分に起用可能であることだけを説明するに留まった。ファラオーネが「自らのポジションがない」と考え、「インサイドハーフの選手ではない」と拒否反応を示し、「自らは望まれている選手ではない」と考えるに至るのは十二分にあり得る話なのである。というのも、彼は金曜日にミランのプレシーズンキャンプに合流したばかり。金曜日には練習試合が組まれていた関係で、ミハイロヴィッチとエル・シャラーウィの間に具体的な説明をする余裕すらもなかった。
これが悲しい「すれ違い」である。

その頃、イビサ島では。。。
アドリアーノ・ガッリアーニはズラタン・イブラヒモヴィッチとのラブストーリーを再開する契機を再び作るべく、イブラが滞在していたイビサ島に追いかけていた。(残念ながらアドリアーノ・ガッリアーニとズラタン・イブラヒモヴィッチが会談している所をキャッチした者はいなかったようであるが、それ以外にガッリアーニがイビサ島を訪れる理由はない。)そこにやってきたのが、フェデリコ・パストレッロ。この代理人はミランとも通じている代理人で、今回の移籍劇の立役者である。とにもかくにも動きが素早かったパストレッロは、アドリアーノ・ガッリアーニが拒否する前に、ステファン・エル・シャラーウィの代理人である兄に、ASモナコ(ASモナコにステファン・エル・シャラーウィの獲得を勧めたのは、ASローマのワルテル・サバティーニSDである。彼には、ファラオーネの移籍金をアレッシオ・ロマニョーリで吸い上げたいという狙いがある。)からの話を伝え、仮合意を押さえた。そして、同代理人はナニをトルコに移籍させた後、トルコからイビサ島に向かった。その時、アドリアーノ・ガッリアーニにはファラオーネに「ミランの彼への期待値の高さが保たれている」ということを伝えきる為の時間の余裕さえ作ることは出来ない状態にあった。ガッリアーニもまたシニシャ・ミハイロヴィッチの構想を伝えきることの出来ない状態にあった。

悲しい「すれ違い」は、頭の中のイメージの「すれ違い」のまま、エル・シャラーウィはモンテカルロに向かう。ほぼほぼ心中は伝え合うことなく、別れの時がやってきてしまった。

2015年7月13日、ステファン・エル・シャラーウィはモンテカルロに到着。メディカルチェックを受診し、無事通過すれば、買取義務オプション付きレンタルにて、ファラオーネのリーグアンでの挑戦が始まる。すれ違いはあるものの、羽ばたく時がやってきた。彼は今でも、ACミランにとって、「夢」であり、「希望」である。


最後に、このステファン・エル・シャラーウィのASモナコ移籍のコラムを書くに当たり、親愛なるくるもん様には、多くの御協力を賜りましたことを追記させて頂きます。ほぼ全ての情報のツイートをお任せし、このコラムの執筆に集中することができたのは偏にくるもん様のおかげであり、そのことを事前に承諾してくださったことをここに明記し、最大の感謝をお伝えしたいと思います。
イタリア時間、2015年7月13日20時30分
ACミラン公式HP
FWステファン・エル・シャラーウィがASモナコへ、買い取り義務オプション付きレンタルで移籍。
後ろを振り返るな、今は前に進むときだファラオーネ!絶対にビッグになるんだ!それだけの素質が君にはある!
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テーマ : サッカー
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セリエファン、アッズーリファンという視点からカルチョ、フットボール、サッカーを分析します。
賛否両論あると思います。
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