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[La storia di un giocatore]ファン・マヌエル・イトゥルベ ~自ら切り開くシンデレラストーリー~

速く鋭い、熱く激しい、力強く美しい。
ファン・マヌエル・イトゥルベはそういうファンタジスタである。

1993年6月4日、アルゼンチン・ブエノスアイレスでイトゥルベは産声を上げた。
ブエノスアイレスで生まれたものの、それは親の仕事の関係上。
両親はパラグアイ人、イトゥルベは両親と共にパラグアイで生活することになったという。
国籍はアルゼンチンとパラグアイの二重国籍である。

そんな彼を最初にユースセクターに招き入れたのは、パラグアイ南東部エンカルナシオンの小さなチーム、クラブ・ユニヴェルサル。
2005年、当時イトゥルベは12歳。
そのフットボーラーとしてのキャリアは成長と環境の変化を繰り返すこととなる。
2006年、13歳になったイトゥルベはたった1年で、もう少し規模の大きいクラブ、クラブ・スポルティーボ・トリニデンセに引き抜かれる。
首都にあるプロリーグとアマチュアリーグを行き来するチームのユースセクター。
2007年、14歳になったイトゥルベはパラグアイの名門セロ・ポルテーニョのトライアウトに招待される。
そこでの好プレーがセロ・ポルテーニョの目に止まり、見事セロ・ポルテーニョのユースセクターに加入することになったイトゥルベにはシンデレラボーイへの道だった。
2009年、2年間の修行を経て16歳になったイトゥルベに用意されていたのは、セロ・ポルテーニョとのプロ契約とトップチームでの出場機会。
2009年6月28日、リベルタードとのリーグ戦で華々しくデビューを飾る。
そして、それだけではない。
パラグアイU-17代表への招集。
そして、2009年11月にはパラグアイ代表チームに招集され、チリ代表との練習試合に出場。
パラグアイでの成功の道を歩み始めることになる。
(僕がイトゥルベのプレーを初めて見たのはこの年の秋頃。
たまたまヨーロッパの試合を見た後にふらっと見た試合でイトゥルベは16歳の選手とは思えない堂々としたドリブルを披露しており、当時のメモに"セロ・ポルテーニョ、Iturbe"とだけメモを残している。)


しかし、イトゥルベの成功は隣国、いや、産声を上げた国にもしっかり届いていたのである。
2010年、イトゥルベは1つの決心をする。
敢えて厳しい道を選ぶ。
それは自らの将来をパラグアイに置くのではなく、もう1つの母国、アルゼンチンに置くこと。
5月、パラグアイのシンデレラは、セロ・ポルテーニョとの契約更新を拒否。
セロ・ポルテーニョはもちろん失望し、彼をトップチームから除外。
イトゥルベはU-20代表ではアルゼンチンを選択することを宣言。
2010年のFIFAワールドカップ南アフリカ大会では、アルゼンチン代表のバックアップメンバーに選出。
一気に知名度は向上することとなる。

2010年8月、セロ・ポルテーニョはイトゥルベをアルゼンチン、プリメーラディヴィジオンの昇格組キルメスにレンタルで放出。
イトゥルベは既にこの頃には気付いていたのであろう。
自らがレアルマドリード、マンチェスターユナイテッド、ナポリ、ASローマなどにマークされていることを。。。
彼にはおそらくプロデビューを果たした時にはヨーロッパビッグクラブのスカウトが目を付けていた。


キルメスでは出場機会がなかった。
しかし、2011年1月に行われたU-20南米選手権ではアルゼンチンU-20代表としてプレー。
もちろんスタメンで出場を続け、チームは3位(優勝はブラジル、準優勝はウルグアイ)に終わるのだが、圧巻だったのはブラジルU-20代表戦。
鮮やかなドリブルで次々にブラジルのディフェンス陣を破ったイトゥルベはブラジル相手に唯一の敗戦をプレゼントする決勝点を奪う。
(当時のブラジルU-20代表のエースはネイマール。
なんと9ゴールを上げ2位に5ゴール差という圧巻のパフォーマンスを披露。)


さて、そのU-20南米選手権が大詰めの段階で、彼のアルゼンチンでの冒険は一先ず半年で終了が決定する。
アルゼンチンのクラブで成功を収めるより前に、ヨーロッパへの挑戦のチャンスがやってきたからである。
FCポルトがセロ・ポルテーニョと移籍金400万ユーロで移籍に合意したのである。
これにより規定上18歳までポルトへ移籍出来ないイトゥルベはセロ・ポルテーニョに帰還する。
そして、2月15日、U-20南米選手権を終えて1週間も経たないイトゥルベはセロ・ポルテーニョの一員として、コパ・リベルタドーレスのコロコロ戦(チリ随一の強豪、アレクシス・サンチェスやアルトゥーロ・ヴィダルを輩出)で鮮烈な復帰を果たす。
この試合でドッピエッタ(2得点)を記録し、チームの勝利に貢献。
その後、半年をセロ・ポルテーニョで過ごした。

ヨーロッパでの挑戦も最初は上手く行ったわけではない。
2011年7月1日、南米からヨーロッパ全土への中継地点になることの多いFCポルトに加入したイトゥルベに立ち塞がった壁は当時、FCポルトの右ウィングにあって、チームの中心、「超人」フッキであった。
如何にしても崩せないチームの中心選手の壁。
彼にはほとんどプレーの機会はなく、練習だけの毎日が続く。
2012年、フッキがゼニト・サンクトペテルブルクに移籍した後も、ハメス・ロドリゲスやクリスティアン・アツなどとのポジション争いに敗れ、とうとうほぼプレーすることなくアルゼンチン、リーヴェル・プレートに出場機会を求めてレンタル移籍することになる。
2013年2月、それはイトゥルベがポルトに移籍してから1年半後のこと。
空白の1年半の鬱憤はリーヴェル・プレートでぶつけた。
最初は久々の出場機会にぎこちなさもあったものの、徐々にプレーの幅を右サイドだけではなく左サイドに広げるおまけ付きで。


2013年夏、メルカート最終日に選んだ移籍先はエラス・ヴェローナであった。
買い取りオプション付きレンタルでの加入であった。
しかもその買い取りオプションは1500万ユーロ。
およそプロヴィンチャのチームに付けられる価格ではないにも関わらず、エラス・ヴェローナのセアン・ソリアーノSDは自信を持ってその要求を飲んだのである。
これがファン・マヌエル・イトゥルベのシンデレラストーリーの再開の幕開け。
あとは実力を見せ付けるだけだった。
自分の道は自分で切り開く。
それがファン・マヌエル・イトゥルベの進む道。
最初はセリエAの狭いスペースに悩んだ。
右サイドでボールを待つもボールが来ないことも多々あった。
ロムロとの相性は良くなかった。
しかし、セリエAの激しいディフェンスに対しては物怖じすることはなかった。
アルゼンチンでのプレーが激しいディフェンスに慣れさせていた。
まずは足下で受けたいプレースタイルでも活きるためにボールを受ける位置(ポジショニング)の改善した。
次に守備にもうるさいアンドレア・マンドルリーニ監督に守備への意識を改善された。
守備の能力はないに等しかった。
しかし、これも1シーズンで比較的向上した。
33試合に出場し、8得点4アシスト。
もちろん活躍はした。
しかし、この出場数には間違いなくセアン・ソリアーノSDの確信とアンドレア・マンドルリーニ監督の育てる根気が影響した。
それでなければ同様に活躍の可能性を十分に見せていたラファエル・マルティーニョと同様に出場機会を減らす可能性は十分にあった。
しかし、アンドレア・マンドルリーニ監督は諦めずどんなときもファン・マヌエル・イトゥルベを起用し続けた。

2014年4月、そんなファン・マヌエル・イトゥルベの獲得に動いたのはレアルマドリードのカルロ・アンチェロッティとASローマだった。
彼らは既にパラグアイにいた頃からイトゥルベをマークしていた。
カルロ・アンチェロッティは自身の代理人エルネスト・ブロンゼッティを介し、獲得に向けて基本合意まで持って行った。
イトゥルベにとってレアルマドリードは間違いなく目指すチームであった故、本人も相当に嬉しかったに違いない。
しかし、基本合意が完全に移籍という形にまでは至らなかった。
シーズン終了後、ACミランとユヴェントスが獲得に名乗りを上げた。
遅れてナポリ、バルセロナも。
ミランはエルネスト・ブロンゼッティを介して、カルロ・アンチェロッティの興味を知り、その願いが成就しないことを知っていたのだろう。
代わりにミランがと必死に動いた。
しかし、金銭面でとうとう合意に至ることはなかった。
ユヴェントスは確かに獲得に動き、その争奪戦をリードした。
しかし、アントニオ・コンテが最後まで獲得を猛プッシュすることはなく、監督を辞任した。

2014年7月15日、ユヴェントスのアントニオ・コンテ監督が急遽辞任を発表したタイミングでASローマのワルテル・サバティーニSDがエラス・ヴェローナにオファーを提出。
7月16日、ASローマは大急ぎでエラス・ヴェローナと交渉をまとめ、クラブ間合意にこぎつけ、そのまま選手とも合意に至ったのである。






あまりにも出来レースなこの移籍には、誰かが情報を知っていた可能性が十分にあるが、それでもイトゥルベはイトゥルベらしい選択をした。
それは常に先のステップアップの可能性を意識した選択のこと。
彼は今回もまた自らが自らの道を切り開くための道に進んだのである。
そして、彼はきっと忘れていないはずだ。

1度は先が見えなくなったところから彼を救い出したのは、自身ではなく、エラス・ヴェローナであることを。
セアン・ソリアーノSDが彼に賭けていなければ。
アンドレア・マンドルリーニ監督が彼を根気良く使い続け、厳しくも成長を促していなければ。
彼はそれがなければシンデレラストーリーのページを捲ることは出来なかったはずである。
彼はそれを覚えているからこそ、移籍が決まった最初のツイートでASローマとそのファンに向けてではなく、エラス・ヴェローナへの感謝を述べたのだろう。


ツイート訳:「エラス・ヴェローナというクラブ、そのチームメイト、そして、ファンのみんなにありがとう!エラス・ヴェローナには、あらゆることで感謝しているよ!」

そして、シンデレラストーリーの次なるページは捲られた。
そこにストーリーを描くのはファン・マヌエル・イトゥルベ自身である。
若い選手がストーリーを描くことをロマニスタならば温かく見守ることができる。
元来、それを容易にする文化がASローマというクラブとそのティフォージには根付いている。
選らんだのはイトゥルベ自身である。
シンデレラには「時間」があまりない。
しかし、「時間」はたっぷりある。
その両義性こそが、21歳のファン・マヌエル・イトゥルベの現在地なのである。


ツイート訳:「みんなありがとう!今日は出発の日だ。僕はローマの選手だよ。」

[追記の追記]
ファン・マヌエル・イトゥルベの特徴は何と言ってもそのドリブル。
重心を低く保ちながら、伸びるように突き進むそのドリブルの姿勢はリオネル・メッシによく似ている。
それゆえ、「グアラニーのメッシ」という呼び声も高い。
メッシとの違いはどちらかというと細かいステップとその吸いつくようなボールタッチでフィジカルコンタクトを避けるように抜くメッシに対し、どちらかというとボールに細かいステップでボールを囲い込みながらフィジカルコンタクトを嫌がらずに抜いていくところ。
ドリブルで抜く際はカットインでバイタルを目指すことが多く、バイタルに入ったタイミングではパスよりもミドルシュートを優先する。
バックラインを抜ききらぬとも十分枠を狙うことのできる精度とパワーのあるミドルもまた1つの特徴といえる。
それが33試合出場にして8ゴール4アシストとなっている理由ともいえる。
今後の課題はパスワークで相手のバックラインを抜き去って、ゴールを決めてしまうようなセカンドストライカーとしての動きを上達させることだと筆者は考える。
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テーマ : サッカー
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Author:迫恵駆緒
セリエファン、アッズーリファンという視点からカルチョ、フットボール、サッカーを分析します。
賛否両論あると思います。
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